In deinem Märchen ein Segen. きっと大丈夫。 私があなたを二度と独りにはしないわ。 私の力では、長い間もたせられないけれど。 南の空にたくさんの輝きを見たの。 だからきっと大丈夫。大丈夫よ……。 輝けるあなた。 あなたを私は知らないけれど、あなたはきっと来てくれる。 そしてどうかお願い。 ここへ来て、この子を、この世界を、私の愛する者達を、救って――
石畳を赤い薔薇の花弁が転がっていく。 穏やかな風の元、人々は頭を垂れて息を詰め、次期聖女が現れるのを待っていた。 雲ひとつない初夏の晴天。 教会の村アルトグレンツェでは、今日から明日にかけて、聖女継承の儀が執り行われる。 先代の聖女が亡くなってから十七年。 継承資格を持つのは、彼女のひとり娘ルクレティアただひとり。 ほころびかけた野茨の蕾を思わせる、可憐で美しいその姫は、民から茨姫と呼ばれていた。 白と淡い薔薇色のゆったりとしたドレスを纏い、 微かな衣擦れの音と共に次期聖女――茨姫ルクレティアは、かの塔へ向かう。 継承の儀が行われる、茨の塔へ。 生まれたての朝陽のような、柔らかい金色の長い髪を、くるりくるりと風に遊ばせながら。 夜明けを知ったばかりの明るい夜空のような美しい紫の瞳で、沿道に並ぶ人々を見やりながら。 お付きの者が薔薇の花弁を道に落とし、祝福に訪れた妖精達が鈴のような笑い声を上げながら飛び回る。 それはまるで、婚礼の儀だった。
次期聖女はひとりで塔に入り、一晩中祈りを捧げる事になっている。 それによって、継承は為されるのだった。 聖女、あるいは聖者は代々その血によってのみ継承され、 世界はかれらの祈りによって、平和と均衡を保つとされる。 その為、人々にとって聖女や聖者は絶対的な存在であり、かれらの言葉は何より重い意味を持つのだ。 そうしてこの世界は、聖女や聖者の庇護の元、二千年の長い時を過ごしてきた。 の、だが―… 巨大な扉をくぐる直前、彼女は視線の端で空を見上げ、不安気にその顔を曇らせた。 誰もいない塔内は静寂が満ち、古い石の匂いがした。 石造りのとても古い建物だ。 ルクレティアは、首を巡らせて周囲を見渡し、「随分、古い建物なのですね」と驚いたように呟く。 その声が反響するのを聞いてから、ルクレティアは隣に立つ人影を見上げて微笑んだ。 「ふふっ、アナタの言っていた通りです。ヴィルジナル」 不意に現れたか、最初からそこにいたか、存在感のないその女は、氷細工を思わせた。 微かな冷気まで感じさせる。 女は氷のような溜息を付くと、目を伏せた。 「そんな事より、気付いているのでしょう」 ルクレティアは首肯して、眉を下げる。 「鏡は砕け散る寸前。今宵、私が聖女を継承したとしても、もう止められない……」 ルクレティアはドレスの裾に付いていた薔薇の花弁をそっとつまみあげた。 淡い薔薇色。しっとりとして滑らかな表面を撫で、慈しむように胸に抱く。 「このままでは世界が、私の愛する人達が、鏡の破片に貫かれてしまいます。 私は…そんな哀しい事きっと耐えられない…」 そう言って彼女は強く顎を引く。 ひたと正面を見つめる強い瞳が、その言葉に嘘がない事を告げている。 「だから、私は、そんな事はさせません。 ……何もかも、守りたいと思うのです」 そう真っ直ぐと、何かを決意するように呟く。 「傲慢な願いですね」 「……そうかもしれません」 見下ろした小さな手の平は柔らかく、剣を握った事さえないだろう。 その手に乗せられた薔薇の花弁が微かに揺れた。 「ですからヴィルジナル、その時が来たら、私に力を貸してくれますか?」 「それは……」 「私はとても弱いから……アナタの力が、必要なのです」 ふうっと、ルクレティアは薔薇の花弁に息を吹きかけた。 吹き飛ばされた花弁を見送って、彼女は歩き出す。 継承の儀を行う為、聖女が祈る場所はこの塔の最上階にあるのだ。
塔の最上階。 時を経て尚も豪奢な椅子を尻目に、ルクレティアが床に膝を付き、祈り始めてすでに数時間。 日は落ちて、空には星々が輝いていた。 恐らく人々も、多くは眠りに就いているだろう。 窓辺に浅く腰掛けたヴィルジナルは、祈りを捧げるルクレティアを見つめていた。 「……アナタは、何に向かって祈るのですか」 正式な聖女ではなかったとしても、ルクレティアは幼い頃からずっと、祈りを捧げてきている。 それは、聖女の血を持つ者にしか出来ない役目だからだ。 ルクレティアは少し考えてから、微かに微笑む。 「分かりません。でも、空の上にあるあの鏡……あの奥に、誰かがいるの。 怒りと悲哀に、酷く苦しんでいる誰かが」 「……そうですか」 「ヴィルジナル、アナタはあの子の事を知っているのですか?」 問われたヴィルジナルは、押し黙る。 「会った事はありますか?」 「…………」 「どんな子でしたか?」 その問いには、指先に棘が刺さったような反応を見せた。 表情は相も変わらず氷のようだが、ヴィルジナルは目を閉じる。
「……忘れてしまいました。とても、とても昔の事ですから」 「そうですか……。知りたかったのですが。あの子が、ここへ来る前に」 「……?」 それは刹那の事だった。 激しい強風が窓を叩き、砕き飛ばし、轟音と共にガラガラと屋根が崩れて、そこに巨大な穴が開く。 晴天の空には暗雲が満ちる。 雷鳴が大気を震わせる。 烈風が吹き荒れる。 「まさか、時はすでに満ちていたのですか!?」 舞い上がるガラスの中、ヴィルジナルは息を呑んだ。 「いずれ鏡は砕け、破片は降り注ぎ、あの子が解き放たれます……! 私の祈りは、あの子への呼びかけ。 私は、あの子に今ここへ来るよう言いました!」 ルクレティアは頬を切り裂くガラス片にも臆する事なく、空に向かってその両腕を差し出した。 「今なら、私が受け止められるから……!」 空が――否、空の上にある巨大な何かが、音を立ててひび割れていく。 鳥の雛が生まれるように。世界の終焉が、姿を現す。 空を覆う巨大な鏡を、鏡に封じられた悪しきモノを、 ルクレティアはその魔力を全て放出して受け止めようとしている。 「本当に、全て受け止めようと言うのですか……!? その細い身体で、折れそうなその腕で! そのような事は、不可能です!」 現に、地上には鏡の欠片が降り注ぎ始めているだろう。 あれに触れれば、どうなるか分かった物ではない。 「言ったでしょう、ヴィルジナル……っ! 私は、私はっ!全てを救いたいの!! 例えそれが、傲慢な願いだとしてもっ!!」 ルクレティアの魔力と、鏡の破片が衝突し、火花を散らす。 「よもや、あの娘をも救おうと言うのですか!? 二千年の間、鏡の封印の核とされていた、あの娘を!」 恐らくはもう、人ではない。 意志も意識もなく、荒れ狂う概念そのものと化しているはずだ。 無数の破片に貫かれながら、ルクレティアは膝を付く事はしなかった。 悪しきモノが流れ込んできても、目を閉じる事さえしなかった。 けれどただ、涙を流していた。 鏡に封印されていた過去の記憶と、記録が、彼女の中に流れ込んでいるのだ。
「あぁ……ごめんなさい、私は何も知らなかったの。 こんな酷い事が許されていいはずがないわ……。 なんて酷い事をしたの……。 なぜ私達は、それを忘れてしまったの……」 ルクレティアは背を震わせる。 彼女が見たのは、恐ろしい、禁術にまつわる物だった。 「これは私達そのもの……。 私達の罪……。 私達は、あなたに全てを押し付けてきた……! ごめんなさい……ごめんなさい……」 「ルクレティア……!」 暴風に逆らいながらヴィルジナルはルクレティアに手を伸ばす。 「あの子の記憶、引き裂かれた心の欠片が、流れ込んでくるの…。 何も分からないまま閉じ込められた…! 父王様も、お姉様も、助けてはくれない…。 暗い…寒い…おぞましい…っ! ここから、出してっ…!出してっ!」 「ルクレティア、もうやめなさいっ!! それ以上やれば、取り込まれてしまう!」 ルクレティアはヴィルジナルにゆっくりと顔を向ける。 その顔は涙に濡れてはいたけれど、彼女はそれでも静かに微笑んで見せた。 「私は……私は平気です。 きっとこれは、私の役目なの。 あの鏡の封印を守ってきた、聖女の……」 彼女は再び空を見上げて花のように微笑んだ。 「さぁ、もう泣かないで。私が二度とあなたを独りにはしません」 だから、ここへ来て?
吹き荒れる風と、ガラスと瓦礫の中、ソレは前触れなく、伸ばした手の先に現れた。 黒を塗り固めたような黒い、黒い、どす黒い人影。 割れ鐘のようなその音は、途切れる事ない絶叫か。 ヴィルジナルが立っていられず膝を付く、 その中で、ルクレティアは躊躇する事なく、ソレに歩み寄り、手を伸ばし、きつくきつく抱き締めた。 絶叫が高まる。狂風が吹き荒れる。 「ヴィルジナル!!」 その声はほとんど悲鳴だったが。それでもひどく冷静だった。 「私の力ではもう、この子をここに留めておく事は難しいでしょう。」 「……お願いヴィルジナル。 私ごと、この呪いを閉じ込めて。 私がこの子を、私達の罪を抱きしめているうちに」 「それがどういう事か、理解しているのですか!?」 「分かっています!非力で傲慢なこの私が! この子を止めていられるたったひとつの方法です!」 ヴィルジナルが目を瞠ったのは一瞬。彼女はかぶりを振って、苦しげに眼を閉じた。 「……アナタに、こんな役目を担わせてしまって、ごめんなさい」 彼女はその指先を空に走らせる。 「悪意を背負いし者。孤独に焼かれた哀れな怪物よ……。 今は、ただ眠りなさい」
彼女の周囲が一瞬にして凍り付く。 大気中の水分だけではない。 全ての時間、あらゆる物理法則すら、静止する。 精神すら静止させるその力は、悪しきモノや黒い娘の存在を、 それらを受け止めたルクレティアの意識ごと凍らせた。 静寂。 風の音もしない。 ヴィルジナルは立ち上がり、静止したその空間を見渡した。 塔の下で、幾人かが叫んでいるのが聞こえる。 結局、ルクレティアは破片を全て受け止める事など出来なかったのだ。 無理もない。二千年前、人柱を使い十三名もの術者によって成ったまじないだ。 現に、鏡に封じられていたモノが、ルクレティアからすでに漏れ出しており塔に変化が起きている。 いたる所から茨がのたうちながら生え、塔を取り巻き始めていた。 まるで、何もかも拒絶するように。 意識を凍らせても尚、この勢いだ。そう長く持つまい。 この呪いが解放され、濃密な悪意に触れたあらゆる生命は、きっと壊れてしまうだろう。 「ルクレティアを目覚めさせるわけにはいきません。 ……封印の方法を、探さなければ」 ヴィルジナルは静寂の中、呟いて。 消えた。
ルクレティアが塔に入り数時間、月のない深夜。 眠りに就いていた人々は経験した事のない地鳴りと、大気の震えに目を覚ました。 慌てて外に飛び出した者の一部は、胸にガラスが刺さったような痛みを訴えた後、次々に昏倒。 かれらは翌朝になっても目覚める事なく眠り続けた。 昏倒の際、奇妙な冷気が吹き抜けたとの情報も出たが、詳細は不明。 夜明けと共に人々が目にしたのは、醜悪な茨に絡め取られ、 増殖し不自然に高く伸びた、茨の塔の姿だった。 それから数日の混乱ぶりは筆舌に尽くしがたい。 触れると昏倒するその現象を、人々は単純に呪いと呼んだ。 多くの街道は呪いによって通行出来なくなり、 不用意に塔に近付いた者は昏倒し、各地の姫も手を尽くしているが、 茨姫を見つける事さえ叶っていない。 あの呪いの正体さえ分からない今、人々に出来るのは怯える事のみ。 正体不明の呪い、茨の塔の異変、聖女の不在。 その他にも、各地で魔物の増加や凶暴化が見られているらしい。 これも、人々の不安を煽る一因だ。 今日は各地の姫がここアルトグレンツェに一堂に会し、今後の対策について話し合っているようだが、 話は平行線。まとまる事はないだろう……。 そこで彼はペンを走らせる手を止め、顔を上げた。 白い花の咲く植え込みの上でじゃれあう、妖精の姉妹に声をかける。 「すまないがエインセール、ちょっと茨の森の様子を見てきてくれないかな」 手乗りサイズの小さな少女が、パッと顔を輝かせて、虹色の羽根を興奮気味に、ばたつかせた。 「もっちろんです!! このエインセールにお任せ下さい!」 「ちょっとオズ! アンタのお付きは私なんだから、そういう事は私に頼みなさいよ!」 こちらは炎のような羽根を持つ、姉妹の姉の方だ。 彼の使い魔という事になっている、炎の妖精である。 「いやユスティーネには別の頼みがあるんだ」 「重要な仕事?」 「えっ、まぁそうかな」 「なぁんだ!そういう事ならさっさと言いなさいよね!」 分かりやすく火の粉を飛ばしてくるユスティーネに苦笑しながら、彼は空を見やった。 南の空に、微かな輝き。 「……物語がまもなく、動き出す」 これは僕が書き記す、夢見る君の物語だ。 君は知る事になるだろう。 この世界に何があったのか。 好きな場所へ行きなさい。 好きな事を為しなさい。 それがそのまま、この物語になるだろう。 迷い込む者などありえない、呪いに閉ざされた茨の森。 不意にその者は現れる。 夢色の瞳の来訪者。 南の空の輝きと共に、始まりの場所に。 「ひゃわわわ~!そこの人、助けて下さい~!!」
END